2月初めのどしゃぶりの雨。「もう少し寒かったら大雪だな。」そう思いながら全面ガラスの公園管理事務所の二階の窓から外を眺めていた。外に広がる木々の装いは正に厳寒の冬一色。こんもりと広がる常緑樹の森は深い緑をその先につなげていく。刈り込まれた芝生の中に枯木のように細く立っている葉の落ちた木々。広がりの中に目を移すと、淡い霞のような木が目に留まった。「あれ、あれは梅ですかね。」
私の言葉に、近くにいた職員が「そうですよ。蔭になって見えないんですが、あの左手に紅梅も対になっているんです。」
「え、」
私は場所を移動して見事な紅い梅の木を見つけた。
「もう梅の季節なんですネ。そういえばすぐ立春ですからネェ。」
この頃は朝が明るさを増して来たような気がしていた。冬至のころのあの暗闇の中に引き込まれていくような感覚とは反対に、何と気持ちが明るく元気にさせられるんだろう。「春はあけぼの…。」明るさを増す朝は春到来を感じさせる日本人共通の喜びなのかも知れない。
代々木公園は学園の生徒たちにとって生活の一部になっている。生徒たちは体育や部活の練習場として、またジョギングや写生などにも使わせてもらっている。花のころはお花見にも行く。あの大きな緑のスペースは貴重で得がたい癒しの空間ともいえる。我が家も近いこともあり、休日には散歩やジョギングにとでかけていく。特に妻はこの5年程は健康とストレス発散にと走っている。先日も一緒に走ろうと行ってはみたものの、スピードに勝る妻はあっという間に行ってしまった。ヨタヨタと後を走っていた私は、道路のわきに木の実がびっしりと落ちているのを見つけた。どんぐりかと思ったらそうではなさそうだ。どんぐりをスマートにして先をとんがらせたような形で、どちらかというとピーナツのような形をしている。「これはカヤの実だ!」とっさにそう思った。少年時代には毎日のように山野をかけめぐり、よく食べたおいしい実の一つだ。昔はこの実から油を絞ったという。味は渋みのまじったピーナツのようでなかなかうまい。 何もない戦後の野山は食物の宝庫だった。山ぶどうも何種類もありそれぞれにおいしく、山梨(山に自生する小つぶの梨)や数々の木の実は、空腹を満たしてくれた。ほとんどが甘ずっぱく、今思い出しても口腔内にだ液を誘ってしまう。
「走るのは中止ですか?」
外周を一周してきた妻は笑いこけてすわりこんでしまった。
「まあ、いつものことだからネ」とあきらめ気味の雰囲気を感じた私は、「カヤの実を見つけたんだよ。こんなに落ちてるんだ…。」と言った。ざっと説明を終えると「ふーん、そうなんだ。」と感心している。管理事務所に電話で尋ねると「拾っていいですよ。」という。たくさん拾って、ラオスのバザーに出して基金の一部にしようと新たなアイデアも浮かんで来た。
私は桜の花が大好きで自他ともに認めている。日本人としてはあたりまえといえるが、私は許されるなら、春先は桜を迎えに行き、晩春まで開花とともに一緒に歩き、初夏には北海道から送ってやりたいと思っている。仕事があるから、叶わないだけだ。咲くまでは、いつ咲くのかとソワソワし、咲き始めると「あわてるな、あわてるな」と声をかけたくなる。三分咲でよろこび、七分咲きで楽しみ、満開では涙が出るほど感動し、散らないことだけを祈る毎日だ。古(いにしえ)の歌人たちの短歌からも同じ気持ちが伝わってくる。
八重桜やしだれ桜の美しさも認めないつもりはないが舞台が違う。だが北国で両者が一斉に競演するのを眺める時は、この世の幸せに満たされてしまう。桜は時と場所を変え、何度もお花見をするのに、梅の花を見に行った記憶はない。町中の庭先から張り出した梅の枝が向こうから景色を送って来て、偶然見ることはあるが、それ以外は無い。よく考えてみると不思議だ。
二十年前他界した私の父は梅が大好きだった。常々「梅はいいナ」と言い続けて来た。晩年は「梅はいいぞ」と言い方が変わった。聖人君子と皮肉られるほど人柄が良く、いいところをいつもほめてくれた優しい父を私は心から尊敬していた。だが花については父の思いになかなか近づくことはなかった。
「世界に一つだけの花」が大ブレイクした。SMAPが歌っているからだけではなく、「一人一人の良さや個性を認め合おう、順位をつけたり比べたりはやめようよ」という考え方に共鳴する人が多いからだ。そんなところにつながるのか、このごろ妙に梅が気になって来た。桜の花の好きさにじわじわと近づいてきている。桜の花は一夜にして散ってしまうその潔さ、そして華やかさが魅力なのだが、それを受け止める側にも相応の「心のエネルギー」がいる。
同じ春を告げる花なのだが、梅は寒中に花をつけ出し、ほのかな香りとともに真っ先に春の到来を告げる。地味な装いに、散り際の往生の悪さも、どこか優しい。今流の言葉で言うなら、「スローで癒し系」なのだろう。「ウム〜。ずっととんがり続けて来た私のエネルギーは桜の花を受け止めきれず、丸くなってきたのか。いやいやそんなはずはない、まだまだ。」そう思い返しながら「今年は梅も見に行こう。」と決めた。
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