◆入学式が終ったあと、親戚の慶事があって京都に行った。「京都の桜」を期待したが、新聞などの情報からは“散り終り”と悲しくなる文字が飛びこんで来る。今年の桜は一気に咲いてすぐ散ってしまったため、また年度の終りから今年は特別な忙しさでほとんど花見はできずじまいだった。例年だとあちこち出没し、4〜5回は花見をしなければ気が済まない。私はそれほど桜がいとおしく好きなのだ。
京都へは会議があって毎年秋に行く。紅葉の京都は何度か眺めたことはある。お世話になるタクシーの運転手さんは決まってこう言う。「秋もいいですが、春の桜を見て下さい。観光バスの入らない桜の名所があります。5〜6年前までは入ることができなかった私有地が開放されました。」と。“桜大好き人間”としては聞きずてならず、桃源郷ならぬ桜源郷にめぐり会いたい。いつかそのチャンスがきて欲しいと念じながら、思いは募る一方だった。
◆親戚の用事が終った2日目の朝、タクシーの運転手さんに聞いてみた。「桜がまだ間に合うところはあるの?」との問いに、「昨日の様子を本社に確認してみます」という。「標高の高い北の方は、まだ大丈夫なところがあるようです」「実は、行ったことはないけど、一度行ってみたいと思っていた桜の名所があるんだけど…5〜6年前に私有地が開放され、観光バスの行かないところらしいんです…」私の説明に、「あっ、それは原谷園ですよ」という。「そこはどうなんでしょうか?」「今問い合わせて間に合うというのがそこなんです。とにかく行ってみましょう。」びっくりしながらも私の胸は期待で高鳴った。
◆原谷園は小さな山だった。ふもとで車を降りて急な山道を登っていく。中腹からものの見事な桜が広がっていく。ソメイヨシノではなく、淡いピンクのしだれ桜だ。この日が晴れ姿といわんばかりに満開に咲き誇っている。見物客の感嘆の声が飛び交う。更に登ると中腹に茶屋が並び、広場になっている。腰をおろし見上げると、空からまわりの景色がすべて桜の花につつまれてしまう。何百本かの桜のドームと言ったらいいのかも知れない。この世のものとは思えぬ空間に、ふと我を忘れてしまう。タクシーの運転手さんに声をかけてもらわなければ、そこにそのままいたに違いない。「もう1つ見て頂きたい所があります」名残りもあったが、満ちたりた気持ちになって近くの寺に向った。そこは名刹、龍安寺だった。目の前に広がった石庭の壁の向こうから1本の大きなしだれ桜が身をのり出している。壁の向こうなのに、庭と同化して咲き誇っている。まわりは芽もふいていない樹木。出しゃばってもいず、それでいてその存在感の大きさに、ただ感動…。
樹齢は何百年だろうか。両者の桜に圧倒された。この桜を植えたのは誰だろうか。現代の我々が、こんなにも喜ぶ姿を見て、きっと満足してくれているにちがいない、と思いつつ寺をあとにした。
◆帰りの新幹線の中は、満ちたりた気分だった。「桜はソメイヨシノ」という私の思いは古都の桜がその領域を広げてくれた。
何気なく買った夕刊フジを読んでいると、木村政雄さんのコラムが目に入った。「新言う気凛々(りんりん)」だ。木村さんは現PTA会長の御主人。卒業式には代表で講演をしていただいた。吉本興業の元役員で「やすし・きよし」や「明石家さんま」の育ての親ともいわれて、今、TVやマスコミにひっぱりだこの時の人だ。コラムやスピーチは軽妙洒脱で実に面白い。
このコラムは次のように書かれていてびっくり。「この5〜6年、京の桜(京都が御出身)は気に入ったスポットに行く。今年も仲間から誘われ花見をして来た。一気に開花した桜は、この世のものとは思えぬほど美しく、感動した。仲間と別れてタクシーに乗り、桜の美しさの余韻に浸りながらウトウトとした。突然、「お客さん、あれが今有名な聖神中央協会でっせ!」と案内された。幸せな気分は一気に吹きとび現実に戻された」“できればもう少し幸せな気分を味わわせておいて欲しかったのに…。また、そんな俗な名所は見たくもないのに…”といった気持ちなのだろう。
この木村さんのお気に入りのスポットが、今日、私が訪ねた原谷園と書かれていた。間違いなく昨日か一昨日の話だ。私は不思議な思いでコラムを読み終えた。“今日、駅に来る途中で、あの教会のそばを通らずに良かった”と思いながら、幸せな気分のままウトウトして来た。窓の外では、「春宵値千金」の夕暮が私の「幸せな気分」を更に盛り上げてくれている。
木村さん、私はずっと幸せ気分です。ゴメンナサイ! |